地歌筝曲・三曲

箏(こと)・箏曲

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箏は奈良時代(8世紀初め)に雅楽の中の一つの楽器として中国から伝来しました。

雅楽は奈良・平安両朝を通して、宮廷の儀式や饗宴などの際には盛大に演じられてきました。

鎌倉時代になり政権が朝廷から武家の手に移ると活気を失い、代わって寺院での奏楽が次第に盛んになって行きます。

雅楽の中では、さほど重要な存在でなかった箏ですが、その頃には箏を単独で用いる音楽も存在しており、平家の滅亡とともに、その逃亡者たちによって北九州にもたらされたと想像されます。

16世紀の頃、九州の久留米の善導寺に音楽の才能に恵まれた賢順〈けんじゅん〉という僧侶があり、その寺に伝わる雅楽や寺院芸能、箏の音楽、中国の琴楽等を参考に筑紫流筝曲〈ちくしりゅうそうきょく〉を大成しました。

これが近代箏曲の始祖といわれる八橋検校〈やつはしけんぎょう〉に伝えられることになるのです。

江戸時代(17世紀)になり、当時三味線の名手であった八橋検校は賢順の弟子から初めて箏を学びますが、筑紫流の楽曲には満足が得られず、独自の感性で筝曲を導きます。

それまでになかった半音階を含む調弦(平調子〈ひらじょうし〉)を設定し、新たに組歌〈くみうた〉13曲(箏伴奏の歌曲)と段物3曲(「六段」「八段」「みだれ」の箏独奏曲)を作曲し、八橋流を創建しました。

八橋の唱えた筝曲は大きく支持されることとなり、それまで限られた人々の中でしか扱われてこなかった箏という楽器は、これを契機に広く普及することとなるのです。

そして、この八橋の流れを汲む生田検校〈いくたけんぎょう〉が現在の生田流筝曲の流祖です。

生田検校の大きな業績は、それまで全く別種であった箏(箏曲)と三味線音楽である地歌〈じうた〉を合奏させるというもので、この歴史的な流れをもって地歌箏曲(生田流筝曲)という音楽世界は完成して行きます。

現在生田流、山田流という流派はありますが、それぞれ古典と新作とを含め共存し、邦楽の明るい未来に向けて模索し精進を重ねています。

そして、其処に在る全ての箏曲人にとって、箏曲を芸術音楽として樹立させた八橋検校は正に箏曲の始祖といえます。

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三弦(さんげん)・地歌

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三味線のルーツには色々な説がありますが、日本への三味線の伝来は、室町時代(16世紀半ば)に中国から沖縄に伝来していた蛇皮の三線〈さんしん〉が改良されて、日本特有の形となりました。

当時、楽器の改良や楽曲を作ったのは、大阪の平家琵琶を扱う音楽人達でした。

撥〈ばち〉を使うというのも、それが大きく影響しています。

箏と違って、三味線は特権階級の音楽としてではなく、踊りや民謡、流行歌に結びつき庶民に浸透しながらその音楽性を広めてきました。

まもなく歌舞伎や人形劇という劇場の中でも圧倒的な存在感を示し、三味線音楽は幅広くジャンルを展開して行きますが、三味線本来の芸術音楽として最古のものは三味線組歌と呼ばれ、私共が演奏する地歌の祖でもあります。

地歌とは、もともと京阪の人々が自分達の土地の歌という意味で用いた名称であり、三味線の伝来とほぼ同時に始まり、三味線音楽として最も長い歴史を持っているのです。

地歌は、組歌からその後長歌、端歌、語り物という様々な形で描かれますが、やがて歌のない器楽部分を持つ曲も作られるようになります。

この器楽的な部分を手事〈てごと〉と呼び、こういった形式の曲を手事物といいます。

手事物は江戸中期から後期にかけて更に発展を遂げ、音楽性の高い楽曲が数多く作られました。

生田検校以来(17世紀後半)箏曲との合奏も行われるようになっていた地歌ですが、手事物の発展は更に箏曲との関わりを深め、地歌と箏曲はそれぞれの音楽性を共有し、同時に芸術性を豊かに高めて行くこととなるのです。

そして通常、地歌というジャンルにおいて三味線は三弦と呼びます。

現在でも、同一の演奏家が箏、三弦の両方の楽器を扱うことが一般的です。

そしてこれらの楽器は、共に古くから楽曲の中に「歌」というものが重要な要素として存在していますが、実はこの「歌」も弾き手が担当します。.

これも、筝曲・地歌の大きな特徴です。歌と楽器の関係性は、どちらかが伴奏と言うよりも、むしろ声そのものがひとつの楽器であるかのように複雑に箏や三弦と対等に絡み合い、その音楽を美しく創り上げて行くのです。

これらのことは、歴史をたどり地歌箏曲(生田流筝曲)の成立を理解し、更には、実際に音楽をお聴き下さいますと、お分かりになって頂けることでしょう。

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尺八と三曲(さんきょく)

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創立時より私共三ッの音会〈みつのねかい〉は、地歌箏曲と尺八との合奏(三曲合奏)に研鑚を重ね、その音楽世界を豊かに表現し、互いに高め合うことを一つの目標として活動して参りました。

尺八の歴史と我が家の芸系との関係性については、尺八史家の神田可遊氏にご執筆頂き、あとに掲載いたします。

ここで、一つ述べておかなくてはならないのが、三曲ということばの説明です。

三曲という言葉は、もともと箏、三弦、尺八(かつては胡弓の場合も)の合奏形態を意味するものでしたが、現在では筝曲、地歌、尺八楽の総称として幅広く使用されており、邦楽の中にある大きな音楽ジャンルを意味しています。

要するに、例えば尺八音楽単独であっても、それは三曲というジャンルに含まれ、また、それは伝統のみに固執することなく、これらの楽器で演奏する古典曲、現代曲全てに当てはまります。

以下は、神田氏による尺八の歴史と地歌箏曲との関わりとなります。

ご参考にして頂ければ幸いです。

~尺八の歴史と地歌筝曲との関わり~

尺八は、7世紀前半に唐の呂才によって作られたと言われる、3節・前5孔・後1孔の竹製の縦笛です。

正倉院に8本の尺八が現存しますから、日本には8世紀初めには伝来していたと思われます。

この尺八は雅楽(唐楽)に使われ、『源氏物語』にも「さくはち」として出てきますので、平安時代まではあったようですが、一気に廃れます。

その後わが国では、尺八は前4孔・後1孔と「退化」した形で進化します。

鎌倉末期に1節だけの「一節切〈ひとよぎり〉」、室町時代後期には3節を使った「三節切〈みり〉」、江戸中期には根節を使った7節の「尺八」と、いろろな形の尺八が現れ、現在に至っています。中国でも亡びた尺八は、いまや日本を代表する楽器となっています。

現代の尺八のルーツは「虚無僧〈こむそう〉尺八」です。15世紀末頃に登場する「薦僧〈こもぞう〉」(後の虚無僧)という集団が使っていた、「三節切」と言われる尺八です。

元禄頃からは根節を使った今のような「尺八」が登場し、現在に至るわけですが、虚無僧寺では箏や三味線との合奏を「乱曲〈らんぎょく〉」(外曲)として表向き禁じ、本曲(尺八本来の独奏曲)のみを吹くよう定めていました。

しかし、合奏の魅力には抗しがたく、1700年前後に『三節切初心書』という尺八最古の譜本が出版され「琴三味線に合ふ手」が載せられています。

他の乱曲の譜を見ても、歌はありませんので、当時は手事のみの合奏だったようです。

尺八で歌も吹くようになったのは、それからすぐのことでした。

地歌や箏曲の芸術性の向上とその流行が尺八にも大きな刺激になったことは間違いありません。

明治に入って、尺八は虚無僧の「法器〈ほうき〉」から解放され、箏三弦との「三曲」は大ブームとなります。

この激動の時代の中心にいたのが、「尺八中興の祖」二世荒木古童(竹翁)〈あらきこどう(ちくおう)〉。

多くの外曲譜を作譜しています。

竹翁の一子・真之助が三代目古童です。

一代の名人と仰がれたその芸は、吹く姿勢から違いました。

「音は聴かずとも、その自在な指さばきを見るだけでも、一個の芸術を見るの想いがあった」(木幡吹月『尺八古今集』)のです。

特に初代福田栄香との合奏は白眉の名演奏でした。

二代栄香はこの二人の血と芸を受け継ぐゆえに、箏三弦はもとより、尺八に対しても真摯に向き合っています。

尺八で合奏を鍛えたい方、より三曲を楽しみたい人も一度門をたたくことをお勧めします。

文章:神田可遊

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